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さて、書かせていただくのですが今回は何も書くことがありません。
困りました。
まあ、せっかくなので何も無いということ、無について今回は語ります。
無への語り口としては色々あるでしょうが禅、悟りという方向から話してみます。
みなさんの中には私よりもずっとお詳しい方がいらっしゃるかもしれませんが、私の知見の範囲で語るつもりです。
さて禅問答、というと一体どのようなイメージをお持ちでしょうか。
何か訳の分からない会話、という感じでしょうか。
学生の頃に禅問答を読んで延々とああでもないこうでもないと解釈をし続ける授業を受けたことがあります。
よく分からないなりに考えていたのですが、結局何を問題にしていたかというと、「無」についてなんですね。
「無」といっても「空」(くう)といっても「一心」といってもよいのですが、世界に切れ目がないこと、ひとつであること、この「無」や「空」がいわゆる「悟り」です。
それを確認しつづけるのが禅問答なのだと思います。
この悟りの状態というのは難しいこと、なにか凡人には及ばない特別な状態ではありません。
たとえば、美しい情景に、思わず見とれる。
このとき「私」と「世界」は別々ではなく、ひとつになっています。
「見ている私」と「見られている世界」がひとつになること、その境地が悟りなのでしょう。
その悟りとは場合によって現れるものであって、もう悟りきったぞ、もう何も悩みなんかないぞ、などという完全に悟りきる状態は違うはずです。
般若心経では「色即是空、空即是色」という言葉で表されますが、私なりに解釈しますと色とは俗世間、空とは悟りについてですから、我々の生きている俗世間こそすなわち悟りの世界でありますし、悟りとは今ここにある現実の世界とは離れて成り立たないものなのです。
さて、それではなぜ無が悟りなのでしょうか。
次のような有名な禅問答があります。
あるところに、風に吹かれてたなびく旗がありました。それを見て、弟子が師匠に問います。
「あの旗は風が吹くから揺れているのでしょうか。それとも旗が動くから風があるのでしょうか」
師匠は答えます。
「お前の心が揺れているのだ」
お分かりいただけたでしょうか。
旗と風で分離させて考えるから揺れるものと、揺らされるものが現れるのであって
世界にはそもそもそのようなものは存在しないのです。
何も無いということはどういうことかを確認しあうこと、それが禅問答なのでしょう。 ただし、「本当は世界にはなにもないのだ」と言い切ってしまうと、それは違います。
世界は常になにもない、「無」であったとしても、我々はたくさんの存在に分かたれた世界でしか生きていけないのですから。
話としてまとまらなくなってしまいましたが、たまには心をからっぽにして、無について思いを巡らせてみたらいかがでしょうか。
来週は小堀 博美の担当です。お楽しみに!!
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